健司が病院に到着すると、弥生が病室の入口で待っているのが遠くから見えた。弥生の姿を目にした健司は、先日うっかり指先が彼女に触れ、そのうえ彼女の驚くほどの美貌を目の当たりにしたことを思い出し、思わず顔が赤くなり、照れてしまった。彼女の近くに行く頃には、顔も耳も真っ赤になっていた健司の姿が、弥生の目に映った。彼女は特に気にすることもなく、外の寒さで赤くなったのだろうと思いながら、歩み寄って瑛介のスマホや財布、部屋のカードキーなどを健司に手渡した。「これを後で瑛介に渡してもらえる?」健司は状況が分からないまま、彼女が渡すものを次々と受け取るだけだった。最後に弥生が手ぶらになったのを見て、彼はようやく気づいた。「もうお帰りになるんですか?」弥生は頷いた。「ええ、帰るわ」「えっ?」健司は、自分がこんなに早く来たことを後悔した。もし瑛介が目を覚まして、弥生が自分のせいで帰ったと知ったら、間違いなく叱られるだろう。そう思った健司は急いで引き止めた。「どうかもう少しだけここで待ってもらえませんか?僕は来たばかりで、社長の状況もまだよく分かりませんし、できれば目を覚ますまで待っていただけると大変助かります」しかし、弥生はすでに帰る準備万端だった。「瑛介は、胃の病気を発症したのよ。入院手続きは済ませたから、あとは付き添いを用意すればいいわ。今は点滴を受けていて、あと2本残っているから、なくなりそうになったらカウンターに行くか、ナースコールを押して交換してもらって。他には特に問題はないわ。ただ、しばらく入院が必要ね」健司はその場に立ち尽くした。彼女は必要なことを一通りすべて伝え終えてしまった。「じゃあ、私はこれで。頼むわね」弥生は健司の肩を軽く叩き、そのまま病室を後にした。健司は彼女を引き止める暇もなく、遠ざかる彼女の背中を見送るしかなかった。そして、姿が完全に見えなくなると、ようやく病室の中に戻った。病室に入ると、そこには他の患者もいて、健司は思わず息を呑んだ。なんと、弥生が用意したのは相部屋だったのだ。潔癖症の瑛介が他人と同室になることを許容するはずがない。急いで最奥の瑛介のベッドに向かい、昏睡状態の彼を確認し、胸を撫で下ろした。幸いまだ彼は目を覚ましていない。本当は彼が目を覚ます前に個室
入院という言葉を耳にした瑛介は、眉をひそめた。「入院はしないぞ」「社長、どうかお聞きください。やはり入院したほうがいいです。もしここが気に入らないのであれば、すぐに個室に転院の手続きをしますが」健司がそう言い終えたとき、瑛介は冷たい目で彼を見つめていた。その視線に気づいた健司は、すぐに口をつぐんだ。しばらくしてから、健司は小声で言った。「社長、ご自身の病気を軽く考えておられるかもしれませんが、今日は霧島さんの目の前で倒れたんですよ」それまで冷静だった瑛介の表情が、その一言で変わった。「何?」彼の瞳が鋭くなり、声には威圧感が増した。「誰の前で倒れたって?」瑛介の気迫に圧倒された健司は、たじたじになりながら答えた。「霧島さんですよ......」瑛介は思わず尋ねた。「彼女は帰らなかったのか?」あの時、確かに彼女に帰るように言い、その姿を見送ったはずだ。それなのに、いつ戻ってきたのだろう?健司はその場にいなかったため、瑛介の言葉の意味を理解できなかった。「どういう意味ですか、社長?」「俺を病院に運んだのは君じゃないのか?」瑛介は直接尋ねた。「違いますよ」健司は首を振りながら説明した。「霧島さんが社長のスマホで僕に電話をかけてきて、呼び出されたんです」なるほど、そういうことか。しかし、自分は彼女が出て行くところを見たはずだ。それなのに、なぜ戻ってきたのか?何かを思いついたように、瑛介は急に身を起こした。「彼女は今どこにいる?」「僕が来たのを見届けてから帰りましたよ」健司は隠そうともせず、率直に事実を伝えた。すると、瑛介の表情はさらに暗くなった。「帰っただと?止めなかったのか?」「止めたって無駄ですよ」健司は指をいじりながら、不満げに答えた。「霧島さんとは親しくないですし、止めるなんてできません。それに、彼女はずいぶん長い間あなたを看病していたんですよ。費用の支払いも手続きも全部やってくれて、そろそろ休みたかったんじゃないでしょうか?」その話を聞いても、瑛介は黙ったまま、薄い唇を引き結んで考え込んだ。しばらくして、彼は横になりながら命じた。「点滴を外せ」健司はその言葉の意味に気づくと、慌てて止めた。「それはダメですよ、社長。この点滴はまだ終
彼女は自分を気にかけている。この事実を、瑛介はすでに分かっていた。彼女は冷淡に振る舞い、厳しい言葉を口にしたが......結局、去った後でまた戻ってきた。自分を病院に運び、健司が来るまでずっと待っていてくれた。これがどういうことか?彼女が自分を気にかけていること、そして自分の身に何かあったら困ると思っていることだろう。つまり、彼女がまだ自分を気にかけているなら、自分にまだ望みがあるということだ。彼女は心から自分を完全に切り捨てられたわけではない。本来なら、自分の病状を彼女に知られたくはなかった。しかし、今回の出来事で意外にもいくつかの事実を知るようになった。考えれば、自分にとっていいことでもあるのではないか?一方、健司は廊下で電話をかけていた。弥生の電話番号を知らなかった彼は、まず博紀に連絡を取り、彼女の番号を聞き出した。博紀は何の躊躇もなく番号を教え、こう付け加えた。「今度、一緒にご飯でもしましょう」番号を手にした健司は、すぐに弥生へ電話をかけた。ちょうどその頃、弥生は車を呼んでいて、混雑する時間帯のためにかなり待たされていたところだった。出発しようとした矢先、電話が鳴り出した。「もしもし?」「霧島さん、助けてくださいよ」電話を取ると、受話器の向こうから健司の必死な叫び声が聞こえた。弥生は思わずスマホを耳から遠ざけ、数秒後にまた耳元に戻した。「はい?」彼とはこれまでに二度会っただけだったが、声を覚えていたためすぐに彼だと分かった。「高山です」健司はスマホを握りしめながら何度も頷いているようだった。「何かあったの?」彼の様子が尋常ではなかったため、弥生は運転手に少し待つようジェスチャーを送り、話を続けた。「霧島さん、社長が目を覚まされました」「そう、それは良かったけど」弥生は淡々と答えた。「でも、点滴を受けるのをやめたいと言っていて、さらに退院すると言い出しているんです」その言葉に、弥生の眉がきゅっと寄った。あれほど病状が深刻だというのに、点滴も受けず、退院しようとするなんて?まったく、自分の体が何でできていると思っているのか?「霧島さん、私も説得しようとしたのですが、全く聞いてくれません。もうお帰りになりましたか?もし可能でしたら、助
健司は数秒間呆然としていたが、すぐに駆け寄った。「社長」5分後瑛介は不機嫌そうな顔をして病室のベッドに戻っていた。その横には、呆れた表情を浮かべた看護師が立っている。「まったく、病気なのにどうしてそんなに言うことを聞かないの?点滴中なのに針を抜くなんて、そんなに血を流して傷口は痛くないわけ?」「すみません、本当に申し訳ありません」健司は横で瑛介に代わって何度も頭を下げた。「ご迷惑をおかけしました」看護師は、しおれたように座っている瑛介を一瞥し、釘を刺すように言った。「もう針を抜いたりしないでくださいよ。病院はただでさえ忙しいんですから」そう言って、腰を振りながら病室を出て行った。看護師が去った後、病室は静けさを取り戻した。先ほどの騒ぎを目の当たりにした同室の人たちの視線が瑛介に集まった。「あのお兄ちゃん、たくさん血を流してたよ」子供は母親に身を寄せながら、瑛介を指差した。子供の母親は子供を抱き寄せながら答えた。「それはね、あの人が言うことを聞かずに、自分で針を抜いちゃったからなのよ。でも、遥斗はちゃんとお利口にしていれば大丈夫だからね」「うん、ママ。僕、ちゃんとお利口にするよ!」健司は気まずそうに頭をかき、瑛介に向かって言った。「社長、もし本当に入院が嫌なら、南市に戻りませんか?それから家庭医を呼んで診てもらいながら、しっかり身体を調整していきましょう」「南市に戻る」と聞いた瞬間、瑛介は冷たく彼を睨みつけ、そのまま無表情でベッドに横たわり、目を閉じた。しかし、彼が自ら横になったのを見て、健司は心の中で少し安心した。入院する気になったのか?それなら良い。とりあえず病院で休養してくれれば。一方、弥生は会社に戻って、博紀と今日の投資の件について話し合うつもりだったが、会社に入ると、ソファに座って自分を待っている弘次の姿を目にした。彼女が戻るのを見るや、弘次は立ち上がり、彼女のバッグを受け取った。「おかえり。どうだった?」そう言いながら、弘次は彼女の髪をさりげなく整えた。その仕草はとても親密に見えるものだった。近くでその様子を見ていた博紀は、一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに視線をそらし、何も見なかったふりをした。弥生は少し居心地の悪さを感じたものの、笑顔で答
弥生は思わず反論した。「私は未練があるわけじゃない。ただ仕事をしているだけ。会社を運営するには資金が必要だし、成長のためには投資を見つけなければならない。博紀は以前、大企業の管理職をしていたし、宮崎グループは確かに最良の選択だわ。それに、私はもう過去を手放したし、気にしていない。ただのビジネスの協力関係にすぎないじゃない。私にとって悪いことはないわ。将来、早川で仕事をしている時に彼と会うことがあったとしても、それで逃げたりするつもりはないわ」「本当にそうか?悪いことはないのか?」「ないわ」「じゃあ、約束してくれ」「何を?」「僕と一緒になることを」弘次の端正な顔から、初めて穏やかな笑みが消えていた。弥生は呆然と彼を見つめた。まさか彼がこんなにも急に詰め寄ってくるとは思わなかった。「君が......」「さっき車の中で、博紀から電話が来る前に君が言おうとしていたことは何だったんだ?君は何も影響がないと言ったけど、今の気持ちはその時と比べて変わっていないのか?」弥生は黙り込んだ。なぜなら、反論できないことに気づいたからだ。その時感じていたことが、今の彼女の胸の内にも重なっていた。当時、彼女は弘次にこう伝えようとしていた。「もしあなたが望むなら、私はあなたと一緒になってみたい」しかし、今はその思いが薄れていることに気づいた。その理由は分からない。ただ、時間が経てば考えが変わることもあるのだろう。「弥生」黙り込む彼女を見て、弘次は再び促した。「どう?」弥生は言葉が見つからず、視線を落とし、少し落ち込んだ声で言った。「あなたの言う通り、確かに私は影響を受けている。でも、その影響はただ時間が変えたものであって、あなたとは関係ない」「僕とも関係ない?」弘次は薄く笑いながら問い返した。「本当にそう思っているのか?」「そうよ。他に何があるの?」次の瞬間、弥生の顎は優しく持ち上げられた。弘次は彼女の顎を軽く掴み、その顔を自分のほうへ向かせた。暗がりの中で、彼の温かな唇が彼女の額にそっと触れた。弥生は驚き、抵抗しようとしたが、手首をしっかりと掴まれて動けなかった。顔を上げると、弘次の瞳に浮かぶ傷ついたような、不安げな表情が目に飛び込んできた。弥生は初めて見た、彼の目にあ
「分かった、三日間ね」望んでいた答えを得た弘次は、ようやく満足したように彼女を解放し、再びいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。「君と博紀は話があるみたいだね。彼を呼んでくるよ」そう言って、弘次は部屋を出て行った。彼が出て行くと同時に、弥生の張り詰めていた体は一気に緩み、深いため息をついた。まるで岸辺で死にかけていた魚が水に戻り、ようやく息ができるようになったような感覚だった。弥生はソファに寄りかかり、疲れた表情で目を閉じた。弘次......本当に変わってしまった。以前の彼は穏やかで、話しやすい人だと思っていた。しかし、今日は彼の強引さが際立っていて、もし自分が答えを出さなければ、簡単には許してもらえなさそうな圧力を感じた。外から音がして、博紀が入ってきた。「社長?」彼は部屋に入ると、そっと扉の外を確認するようにしてから、慌てて数歩戻り、再び外を確認した。弘次がいないことを確かめると、扉を閉めて、怪しげに弥生の近くに寄ってきた。「社長、大丈夫ですか?」弥生は彼の近寄り方に驚き、身を引いた。「何してるの?」「いや、社長の様子が気になっただけですよ」弥生は呆れたようにため息をついた。「私から離れてくれれば、それだけで大丈夫よ」博紀は一歩も引かず、彼女の隣に座った。ただし、最低限の距離は保っていた。「それで、彼の提案を受け入れるつもりですか?」その言葉に、弥生は眉をひそめた。「私たちの会話を盗み聞きしてたの?」「いやいや、盗み聞きじゃありませんよ。僕、すぐ外にいただけですし、声が大きかったので当然聞こえました」「それで、本当に彼と一緒になる気なんですか?宮崎さんとの関係を復活させる気はもうないんですか?」「何よ。そんなの馬鹿なこと」「でも、宮崎さんの様子を見る限り、彼は社長とやり直したいと思っているみたいですよ」弥生は冷笑した。「それはおかしい話だわ」彼女が瑛介とやり直す?そんなのありえない。過去のつらい思いが足りなかったと?「おかしいかもしれませんが、さっきの方は、社長が即答するのを望んでたみたいだし、緊張してるのも分かりましたよ。でも......」ここで博紀は言葉を濁した。「でも何?」「でも、あの方、ちょっと怪しい気がするんですよね」
夜、病院の中は静寂に包まれていた。健司は病室のベッドの横に座り、テーブルに並べられた食事を見つめながら、食事に一切手をつけない瑛介を見てため息をついた。「社長、一日中何も食べていないじゃないですか。少しは......」しかし、瑛介はイヤホンを耳に付けたまま、ベッドの背もたれにもたれかかり、スマホの画面を静かに見つめているだけだった。健司がふとスマホの画面を覗くと、そこには2人の小さな子どもがライブ配信をしている様子が映っていた。健司は呆れてしまった。食事をする気もなく治療も拒否しているのに、2人の子どものライブを見続けている瑛介。彼に何と言えば良いのか分からず、健司は無表情のまま画面を見つめた。ふと、「もし自分が別アカウントを作って、ライブ配信中の子どもたちにメッセージを送ったらどうだろう?」と考えた。例えば、「友達が君たちの大ファンだけど、病気がひどくて食事も治療も拒否している。君たちが励ましてくれたら聞いてくれるかも」と伝えるのはどうだろうか?これなら、子どもたちが画面越しに「ご飯を食べて元気になって」と言ってくれるかもしれない。そのアイデアを思いつくと、健司はこっそりスマホを取り出し、操作を始めた。仕事が忙しく、これまでTikTokを使ったことがなかった彼は、アカウントを登録し、ようやくライブ配信に入ることができた。ライブ配信に入ると、すぐに瑛介の冷たい視線が彼に向けられた。「何をしている?」「別に」健司は咳払いをしながら、少し動揺した声で答えた。「社長がずっと見ているので、僕も見てみようと思いまして」瑛介はしばらく冷たい目で彼を見つめたが、何も言わず視線を戻した。ほっと息をついた健司は、再びメッセージを打ち始めた。「こんばんは、本当に可愛いね」彼はもっと長いメッセージを打とうとしたが、指が間違えてボタンを押してしまい、途中の文章が送信されてしまった。新しいアカウントだったため、送信と同時に瑛介の目が鋭く彼に向けられた。「お前、何をしている?」「いや、子供たちを褒めたかっただけです」しかし、瑛介は彼が何か企んでいることに気づいているようだった。「余計なことはするな」と警告した。健司は口を閉ざしたが、瑛介が再び視線を戻すと、すぐにスマホを手に取りメッセージを続けた。
「早く元気になってね」ライブ配信の中でみんなは優しいコメントを送っていた。その中で陽平はふとメッセージを見て、興味津々でカメラに顔を近づけた。その瞬間、小さくて精緻な顔が画面いっぱいに映し出された。「うわっ!」スマホを握っていた健司は、思わず驚きの声を上げた。彼の目はその画面に釘付けになった。まさかと思いつつ、彼はこの小さな顔が瑛介の縮小版に見えて仕方がなかった。それから、健司は何度も視線を瑛介とスマホの画面の間で行き来させた。瑛介を見て、画面を見て――見れば見るほど奇妙に思えてきた。最終的には言葉も出なくなり、ただその場に固まった。これまでも瑛介がこの2人の子どものライブ配信をよく見ているのは知っていたし、その子どもたちと瑛介の雰囲気が少し似ているとは感じていた。だが、今回のようにカメラに顔を近づけた陽平の精緻な顔立ち――幼さの中にすでに冷静で落ち着いた雰囲気が漂っており、その気質が瑛介とあまりにも似ていると感じた。目の前の陽平の顔は近づいて見るほど、子ども特有の細やかな肌の質感が感じられる。「こんばんは、高山さんですね」陽平の声が画面から聞こえ、健司は名前を呼ばれたことに気づき、すぐに反応して答えた。「健司おじさんでいいよ。あと、僕の友達は宮崎なので、宮崎おじさんか宮崎お兄さんって呼んで欲しいな」健司は「お兄さん」と呼ぶほうが若く聞こえるから、瑛介が喜ぶかもしれないと考えていた。しかし、メッセージを送信してから、「宮崎お兄さん」のニュアンスが少しおかしいことに気づき、慌てて付け加えた。「やっぱり宮崎おじさんと呼んでもらえたら!」瑛介もこのメッセージを読んで黙っていた。健司はへらへら笑うしかなかった。一方、画面の向こうで陽平は真剣な顔で話し始めた。「宮崎おじさん、こんばんは。僕たちのライブを見てくれてありがとうございます。病気だと聞きましたが、どんな病気かは分からないけど、病気になったらちゃんとお医者さんに診てもらって、薬も飲まないといけませんよ。そうしないと治りませんから」幼いながらも、陽平の話し方はとても理解しやすくて、ポイントを的確に押さえていた。健司は思わず画面に向かって親指を立てた。「素晴らしい」続けて、陽平はこう言った。「宮崎おじさん、健康でいて
瑛介が返事をしないまま沈黙していると、綾人が再び口を開いた。「弥生は、まだ意識が戻ってないんだろ?」その言葉に、ようやく瑛介は反応し、冷たく答えた。「問題ない。あの二人は頭がいいから」彼がその場にいなくても、あの二人ならきっと対応できる。特に陽平なら、母親の面倒をしっかり見られるはずだ。「とはいえ、あの子たちはまだ若いんだ」綾人は言った。「もし何かあったら......」「僕がここで見てるから」瑛介が鋭く遮った。「......分かったよ」「ここにはもうお前は必要ない。帰っていい」綾人は、今の瑛介の態度を見て、これ以上話をしても無駄だと感じた。それでも彼は少しだけ考えた末、もうそれ以上何も言わずに、廊下のベンチに向かい、静かに腰を下ろした。瑛介は病室の外で壁にもたれ、スマホを取り出して健司に電話をかけた。通話が終わり、スマホをポケットにしまおうとした瞬間、何かを思い出して顔色が変わった。すぐさま振り返り、病室のドアを勢いよく開けた。彼が目にしたのは、二人の子供が寄り添い合いながら、弥生のスマホを手にして電話をかけようとしている姿だった。音に気づいた二人は、同時に顔を上げて瑛介の方を見た。その姿を見たひなのは、すぐに嫌そうな顔になり、唇を尖らせて彼に近づき、また追い出そうとした。でも、瑛介はすぐに大股で近づき、二人の目の前でしゃがみ込んだ。「スマホ、何に使おうとしてた?」陽平は唇をきゅっと引き結び、何も答えなかった。代わりにひなのが腰に手を当て、不満げに言った。「おじさん、ノックもしないで勝手に入ってきて!邪魔しないでよ!」瑛介は今、それに構っている余裕はなかった。彼の注意は、陽平の手にあるスマホに完全に向いていた。彼は手を差し出して言った。「スマホをおじさんに貸してくれるか?」陽平はスマホを後ろに隠しながら言った。「ママのスマホだ。おじさんのじゃない」「もちろん、それは分かってる」瑛介はにこりと笑って言った。「でもママは今寝てるだろ?一応おじさんが預かっておいた方がいい。もし落としたら壊れるかもしれないからね」ひなのがすかさず反論した。「そんなことないもん!私もお兄ちゃんも、スマホ一回も落としたことない!」「そうなんだ」瑛介はひなの
瑛介は聡のことを簡単に許すつもりはなかった。その言い方に滲み出る怒りを、綾人も敏感に察したらしく、わずかに苦笑を浮かべながら口を開いた。「今夜のことは、正直ここまでになるとは思わなかった。でももうこうなった以上......弥生の様子は?」瑛介は唇を引き結び、返事をしなかった。明らかに、綾人を無視するつもりだった。綾人もそれを察して、それ以上は何も言わず、静かに椅子に座った。しばらく沈黙が続いた後、瑛介が不意に言った。「お前、ここにいなくていい」「黙ってここにいるだけでもダメか?」「ダメだ」「......それはあんまりじゃないか」「僕はあんまりな人間だ」そう言われてしまっては、綾人にもどうしようもなかった。だが彼はそれでも席を立たず、ただ座っていた。しばらくして、まるで何かに触発されたかのように、瑛介が顔をこちらに向けた。鋭く暗い目で綾人を睨みつけ、低く言った。「僕に手を出させたいのか?」もしここに子どもたちがいなければ、瑛介はとっくに彼の襟元をつかんで、別の場所に連れ出していただろう。「そうか?なら試してみろよ」「僕がやらないとでも思ってるのか?」と、彼は静かな口調に鋭い響きを込めて言った。ちょうどその時、救急室のランプがふっと消え、に扉がゆっくりと開いた。さっきまで怒気に満ちていた瑛介は表情を一変させて立ち上がり、ドアの方へ向かった。一緒にいたひなのと陽平も、すぐに立ち上がって、駆けて行った。綾人もそれを見て、立ち上がり、彼らの後を追った。「先生、どうですか?」瑛介の声は、さっきまでの冷たさとは違い、少しだけ柔らかくなっていた。だが、抑えた低音が静まり返った廊下に響くと、どこかしら掠れて聞こえた。医師は数人を見渡した後、こう尋ねた。「どなたが霧島さんのご家族ですか?」「僕です」瑛介が答えた。「そうですか。患者さんは頭部に外傷を負っていますが、今のところ大きな問題はなさそうです。ただ、今後さらに検査が必要です」「......さらなる検査?」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の目つきは一段と鋭さを増し、喉の奥で「聡」という名前を噛み砕くような、激しい怒りがこみ上げてきた。「今の状態は?」「現在は安定しています。ただ、頭部を傷めているため、しば
正直なところ、それで行けるのだ。なぜなら、ひなのは瑛介の言葉を聞いて手を上げてみたところ、確かに脚よりも叩きやすかったからだ。さっき瑛介が椅子に座っていたときは、彼の脚に手が届くように一生懸命つま先立ちしないといけなかった。でも今は、彼が自ら頭を下げているから、まったく力を使わなくても簡単に手が届く。ただ、目の前にいる瑛介の顔は、近くで見ると目がとても深くて黒く、表情も鋭くて、少し怖い。ひなのはその顔を見て、急に手を出すのが怖くなった。おそるおそる彼の顔を見たあと、一歩後ずさった。その小さな仕草も、瑛介にははっきり見えていた。「どうした?」ひなのは唇を尖らせて言った。「もし、おじさんが叩き返してきたらどうするの?」手も大きいし、もし本気で叩かれたりしたら、自分なんてきっと一発でペチャンコにされちゃう——そんなことを考えれば考えるほど、ひなのは怖くなってしまい、くるりと背を向けるなり一目散にお兄ちゃんのところへ駆け出していった。瑛介は完全に顔を叩かれる覚悟までしていたのに、まさか彼女が急に逃げ出すとは思ってもいなかった。ホッとした気持ちとともに、なぜか少しばかりのがっかり感がこみ上げてくる。娘に頬を叩かれるって、どんな感じなんだろう?そんなことを考える自分に、思わず苦笑してしまう。いやいや、何を考えてるんだ。叩かれて喜ぶなんて、自分はマゾかとさえ思い、頭を振って気を引き締めた。雑念を払って、救急室の扉を真剣に見守ることに集中することにした。弥生は無事でさえいてくれたら、それだけで十分だった。一方、ひなのが陽平のもとへ駆け戻ると、陽平は大人のように彼女を椅子に座らせ、優しく涙を拭ってあげた。その後、彼もつい瑛介の方を一瞥した。静かに目を伏せている彼の姿は、あれほど背が高いのに、どこかひどく寂しげに見えた。陽平は唇をきゅっと結び、小声で言った。「ひなの、これからはあのおじさんに近づいちゃだめだよ」以前は、寂しい夜さんをパパにしたい!とまで言っていたひなのだったが、今はすっかり気持ちが変わったようで、力強くうなずいた。「うんうん、お兄ちゃんの言うこと聞く!」陽平は、ようやく妹がもうあの人をパパだなんて言い出さないことに安心した。これなら、ママも安心してくれるはずだ
さらに、泣きすぎて目を真っ赤にした二人の子供もいた。それを見て、警察官たちは事態を即座に理解し、真剣な表情で言った。「こちらへどうぞ、ご案内しますので」その後、警察は自ら先導して道を開け、近隣の病院へ事前連絡までしてくれた。パトカーの支援を受けたことで、ようやく車は予定より早く病院へ到着した。車が止まると同時に、瑛介は弥生を抱きかかえて一目散に病院内へ駆け込んだ。二人の小さな子供も、必死について走ってきた。その後の処置の末、弥生はようやく救急室へと運ばれた。救急室には家族であっても入れない。瑛介は二人の子供と一緒に、外で待つしかなかった。今は周囲に誰もおらず、救急室の前の廊下も静まり返っている。瑛介は陽平とひなのを自分のそばに座らせた。「しばらくかかるかもしれない。ここで待とう」陽平はとても聞き分けがよく、何も言わず、ただ静かにうなずいた。けれど、瑛介のすぐそばには座らず、少し離れた場所に腰を下ろした。彼が何を思っているのか、瑛介には分かっていた。しかし、その位置からなら様子を見ていられるし、安全も確保できるので、強くは言わなかった。一方で、ひなのは自ら彼のもとへ歩み寄ってきた。瑛介は一瞬驚いた。もしかして許してくれたのかと思ったが、彼女は彼の前に来るや否や、小さな拳で彼の太ももをポカポカと叩き始めた。「ひなのはあなたが大嫌い!」ぷくぷくした小さな手が絶え間なく彼の脚を叩きつづけた。泣きじゃくりながら怒るひなのは、まるで花がしおれたような子猫を思わせ、瑛介の胸をきゅっと締めつけた。彼は黙ったまま動かず、叩かせるがままにしていた。やがて、ひなのが疲れてきたのを見て、瑛介はそっと彼女の手を握った。「もう、疲れたろう?ね、もうやめよう」ひなのは力いっぱい手を引こうとしたが、離せずにぷくっとした声で怒った。「放してよ!おじさん大嫌いなんだから!」瑛介は彼女の顔を見て、困ったように言った。「じゃあ、おじさんと約束しよう。もう叩かないって言ってくれたら、すぐ放すよ」その言葉を聞いて、ひなのはわあっと再び泣き出し、ぽろぽろと涙を流した。「おじさんは悪い人!ママをこんな目にあわせたくせに、ひなのに叩かせないなんて!」その姿に、瑛介はまたもや言葉を失った。か
陽平はもうそうするしかなかった「うん、任せて」「よし、それじゃあ君とひなのでママを頼むね。病院に連れて行くから」「うん」瑛介は陽平の返事を聞いてから、視線を弥生の顔へと戻した。その額の血は、彼女の白い肌に際立ち、ぞっとするほど鮮やかだった。瑛介は慎重に彼女をシートに寝かせ、座席の位置を調整した。そして、二人の子どもを左右に座らせ、走行中に彼女がずれ落ちないよう、しっかり支えるよう指示した。すべての準備が整った後、瑛介は車から降りた。ドアが閉まった音と同時に、陽平は目尻の涙を拭い、弥生の頭を優しく支えながら、小さく囁いた。「ママ、大丈夫だから。絶対に助かるよ」ひなのも泣き疲れていた。先ほどまでキラキラしていた瞳は、今や涙でいっぱいになり、大粒の涙がポロポロと弥生の足元にこぼれ落ちていった。「ひなの、もう泣かないで」隣から陽平の声が聞こえた。その声に、ひなのは涙に濡れた目を上げた。「でも......ママは死んじゃうの......?」その言葉に、陽平は強く反応した。彼は驚いて妹の顔を見つめ、目つきが変わった。「そんなこと言っちゃダメだ!」ひなのはビクッと震えて、しゃくりあげた。「でも......」「ママはちょっとおでこをケガしただけ!絶対に死なないから!」車は大通りに入った。瑛介の運転はスピードこそ速かったが、ハンドルさばきは安定していた。バックミラー越しに見える二人の子どもが、必死に弥生を守っているのが分かり、その声が耳に届くたび、彼の胸が裂けるように痛んだ。彼は眉をひそめ、重い口調で言った。「陽平、ひなの......絶対に君たちのママを助ける。信じてくれ」その最後の「信じてくれ」は、絞り出すような声だった。陽平は黙ったまま、弥生の血の滲んだ額を見下ろし、顔をしかめていた。その時、ひなのがぽつりと不満げに言った。「ひなのはおじさんのことが嫌い」その言葉に、瑛介のハンドルを握る手が一瞬止まった。しばらくの沈黙の後、彼は苦笑しながら言った。「嫌われてもいい。まずは病院に行こう」ママがこんな状態なのに、娘に好かれる資格なんてあるはずがない。すぐそばにいたのに、大切な人を守ることができなかった。娘まで危険な目に遭わせてしまった。その罪悪感は、今まで
奈々は自分の下唇を噛みしめ、何か言いたげに口を開いた。「でも......ここまで騒ぎになったんだし、私にも責任があると思うの。私も一緒に行って、弥生の様子を見てきた方が......」「確かに、今回の件は僕たちにも責任がある」綾人はそう言って彼女の言葉を遮った。「でも今の瑛介は、おそらく怒りで冷静じゃない。だから、君はついてこない方がいい」そう言い終えると、綾人は奈々をじっと見つめた。その視線は、まるで彼女の中身まで見抜いたかのような鋭さだった。一瞬で、奈々は何も言えなくなった。「......そう、分かったわ。でも、後で何かあったら必ず私に連絡してね。五年間会っていなかったとはいえ、私はやっぱり弥生のことが心配なの」綾人は軽くうなずき、それ以上何も言わずに携帯を手にしてその場を離れた。彼が完全に視界から消えたのを確認した後、奈々は素早くその場で向きを変え、聡のもとへと駆け寄って、彼を助け起こした。「さあ、早く立って」奈々が突然駆け寄ってきたことに、聡は驚きつつも喜びを隠せなかった。「奈々、ごめんない......」「立ち上がって話しましょう」奈々の支えを受けて、聡はようやくゆっくりと立ち上がることができた。彼が完全に立ち上がったのを確認してから、奈々は彼の様子を気遣うように尋ねた。「体は大丈夫?」聡は首を振ったが、何も言わず、ただ呆然と彼女を見つめていた。「そんなふうに見つめないでよ。さっき私が言ったことは、全部君のためだったのよ」「俺のため?」「そうよ。よく考えてみて。今夜君があんな場で暴力を振るったら、周りの人たちは君をどう見ると思う?そんな中で私が君の味方についたら、どうなると思う?君の人柄が疑われて、私まで巻き添えになるかもしれないでしょ?だから私は、あえて君を叱るフリをしたの。がっかりしたフリをして、君が反省したように見せれば、誰も君を責めないわ」「反省したフリ?」その言葉に、聡は少し混乱した。彼は本当に反省していた。あの暴力的な行動を自分自身で恥じ、変わろうと思っていた。でも今の奈々の言葉は、それとは違う意図に聞こえる。......とはいえ、奈々は美しく、優しい。彼女がそんな策略を考えるような人だなんて、彼には到底信じられなかった。最後に、聡は素直
彼は弥生の額から血が流れていたのを見たような気がする。しかも、自分は子供を蹴ろうとした?自分はいったい、どうしてしまったのか?そんな思考が渦巻く中、綾人が彼の前に立ち、冷たい目で見下ろした。「聡、正気だったのか?何をしたか分かってるのか?」「俺は......」聡は否定しようとしたが、脳裏には弥生の額から血が滲むあの光景が蘇り、一言も出てこなかった。ようやく、自分の行動がどれだけ非常識だったかに気づいた。しかし......彼は奈々の方へ目を向けた。せめて彼女だけでも、自分の味方でいてくれないかと願っていた。そもそも、彼がこんなことをしたのはすべて奈々のためだったのだから。奈々の心臓はドクンドクンと高鳴り、心の奥では弥生に何かあればいいのにとすら思っていた。だが、綾人の言葉を聞いた後、その邪な思いを慌てて胸の奥にしまい込み、失望した表情で聡を見つめた。「手を出すなんて、君はやりすぎたわ」ここで奈々は一旦言葉を止め、また口を開いた。「それに、相手は子供よ。ほんの少しの思いやりもないの?」聡は頭が真っ白になり、しばらく口を開けたまま固まった。ようやく声を出せたのは数秒後だった。「だって......全部君のためだったんだ!」もし奈々のためじゃなかったら、自分がこんなにも取り乱すはずがない。弥生とその子供たちに、彼には何の恨みもなかった。彼が彼女たちを攻撃する理由なんて、どこにもなかったのだ。その言葉を聞いた奈々の表情は、さらに失望に満ちたものとなった。「感情に流されてやったことなら、まだしも少しは理解できたかもしれない。でも、『私のため』ですって?そんなこと、人前で言わないでよ!まるで私が子どもを傷つけさせたみたいじゃないの!」「今日まで、私はあの子供たちの存在すら知らなかった。弥生がここに来るなんて、私には想像もできなかったのよ」奈々がこれを言ったのには、明確な意図があった。綾人は瑛介の最も信頼する友人であり、もし聡の言葉が綾人に悪印象を与えたら、今後彼に協力を求めることが難しくなる。だから奈々は、普段どれだけ聡に助けられていても、今この場面では彼を切り捨てるしかなかった。どうせ聡は、彼女にとってはいつも都合のいい人でしかない。あとで少し優しくすれば、また戻ってくる。
そこで、まさかのことが起きた。弥生のそばを通り過ぎるとき、突然聡が何を思ったのか、彼女の腕を乱暴に掴んできたのだった。「ちょっと待って。本当に関係ないなら、子供を二人も連れてここに来るなんて、おかしいだろう!」弥生がもっとも嫌うのは、事実無根の中傷だった。そして今の聡の言葉は、まさに彼女に対する侮辱だった。弥生の目つきが一瞬で冷たくなり、皮肉な笑みを浮かべながら言った。「ねえ聡、瑛介と奈々っていつもカップルに見えるの?」ちょうど近づいてこようとしていた瑛介は、この言葉を耳にして足を止め、弥生の後頭部を鋭く見つめた。この問いかけは、一体どういう意味だ?「もちろんだ!」聡は歯を食いしばりながら怒鳴った。「奈々の方があんたなんかより何倍もいい女だ!瑛介にふさわしいのは、彼女しかいないんだよ!」「じゃあつまり、二人はカップルに見えるのに、あなたは奈々を今でも想ってるってことね?」聡は一瞬言葉に詰まり、予想外の展開に呆然とした。弥生はそんな彼を見つめ、嘲笑を浮かべながら口元を引き上げた。「あなたに私を非難する資格あると思うの?」その言葉の鋭さに、聡は言い返すこともできず、ただその場に立ち尽くしてしまった。ようやく我に返った時には、弥生はもう彼の手を振り払って前へ進んでいた。慌てた聡は奈々の方を振り向いて言った。「奈々......」だが、返ってきたのは、奈々のどこか責めるような、そして複雑な感情を秘めた視線だった。その視線に、聡のこころは一気に締めつけられた。まずい、弥生の言ったこと、奈々の心に残ってしまったかもしれない。もしかしたら、もう自分を近づけてくれなくなるかもしれない。そう思った瞬間、聡の中で沸き上がったのは、弥生への怒りだった。全部、彼女のせいだ。彼女が余計なことを言わなければ、奈々のそばにいられるチャンスはまだあったのに。「待て!」聡はそう叫ぶと、弥生に再び近づき、肩を掴もうとした。その瞬間、弥生に連れられていたひなのが、眉をひそめて前に飛び出し、両手を広げて彼を止めようとした。「ママにもう触らないで!」その顔は瑛介にとてもよく似ていて、それでいて弥生の面影も強く感じられる顔だった。その顔を見た瞬間、聡は怒りが爆発し、反射的に足を振り上げた。「どけ!ガキ
母の言う通りだった。あの言葉を口にしてから、瑛介は確かに彼女に対する警戒を解いた。かつて命を救ってくれた恩がある以上、奈々は依然として特別な存在だった。そして弥生は既に遠くへ行ってしまっていた。五年もの時間があった。その機会さえ掴めば、再び瑛介の傍に戻ることは決して不可能ではなかったのだ。ただ、まさか瑛介が五年の歳月を経ても、気持ちを変えることなく、彼女に対して終始友人として接し続けるとは思いもしなかった。一度でもその線を越えようとすると、彼は容赦なく拒絶してくる。だから奈々はいつも、退いてから進むという戦術を取るしかなかった。「奈々?」聡の声が、奈々の意識を現実へと引き戻した。我に返った奈々の目の前には、肩を握って心配そうに見つめる聡の姿があった。「一体どうしたんだ?瑛介と何を話した?」その問いに奈々は唇を引き結び、聡の手を振り払って黙り込んだ。皆の前で、自分が瑛介と「友達」だと認めさせられると教えるの?そんなこと絶対に言えない。友達の立場は、自分にもう少しチャンスが残されることを願ってのことだ。ただの友達になりたいなんて、そんなの本心じゃなかった。「僕と奈々の間には、何もないから」彼女が迷っている間に、瑛介は弥生の方を向き、真剣な顔でそう言った。奈々は目を見開き、その光景に言葉を失った。唇を噛みしめすぎて、今にも血が出そうだった。あの五年間、彼は何にも興味を持たなかったはずなのに、今は弥生に対してこんなにも必死に説明しているのは想像できなかった。弥生は眉をひそめた。もし最初の言葉だけだったなら聞き流せたかもしれない。だが、今となってはもう無視できなかった。瑛介はそのまま彼女の手首を掴み、まっすぐ彼女の目を見て言った。「信じてくれ。僕は五年前に彼女にはっきりと言ったんだ」二人の子供が顔を上げて、そのやり取りを興味深そうに見つめていた。そして、ひなのがぱちぱちと瞬きをしてから、陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、おじさんとママって、前から知り合いだったの?」陽平は口をキュッと結び、ひなのの手を取ってその場から引っ張った。ママの様子を見て、子供が関わるべきではないと悟ったのだろう。弥生は自分の手を見下ろし、それから瑛介を見て、手を振り払った。「それで?私に何の関係がある